節目なのかな、
節目の年
今年2018年は、有名人が次々と天国へと旅立たれました。
平成最後の年である2018年、これ以上、生きていたくないほど残酷な未来が待っているのか、定かではありませんが、ある意味、昭和は完全におしまいですと言われているような気がします。
私も約5年ほど介護をしていた最愛の母を今年亡くしました。
心にぽっかりと穴が空いている、そのような状態に追い討ちをかけるように母が可愛がっていた猫19歳も急死してしまったことは、自分がこの世にひとり、寂しさと孤独感は否めません。
いま振り返ると、どん底に喘いだ5年だけでなく波乱万丈の人生は、自分のためではなく、人のためになる経験なのだと考え始めました。
現在、一人っ子の私は両親も他界し、ひとり誰にも頼らずに2人の子供を育てています。頼る親戚は全くありません。母の従兄弟である88歳の遠い親戚をのぞいて。
介護中に離婚した理由などは別の機会に。ということでまずは
介護
私の介護についてお話ししたいと思います。
たった5年じゃないか!もっと長年苦しんでいる人も多いぞ!と
ツッコミを入れられるかと思います。
確かに、短いと言われるかもしれません。でも
人それぞれ、大変な思いは変わらないです。
ご自分のご両親で、ちょっとおかしいなと思う時もあると思います。
ちょっとおかしいくらいじゃ病院へ連れて行かれないでしょう。検査しても何にも出ないでしょう。
でも不安。悩ましいという方の参考になればと思い、このブログを立ち上げました。
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同居していた母
私たち親子は、ずっと一緒に住んでいました。母には兄姉がいたのですが、連れ合いがいなかったため、伯父も伯母も母と私で看取りました。
伯母は老人性うつの認知症を患っていましたが、離れて住んでいたことや、伯母は色々なことを隠す性格でしたので、私たちが気がつく頃にはかなり病気も進行していたのです。伯母は年金がよかったので、療養型病院に入ることができ、支払いも心配はありませんでした。地元の特養に申し込みをしました。順番が回ってきたのは亡くなってから3年後でしたが。。。
母は年金が少なかったため、常日頃から、自分は娘に迷惑をかける、入れる施設もないだろうと心配していました。
私と同居しているし、孫もいて気も紛れる、母に限ってボケるなんてありえない!
などと笑い飛ばしていました。
あの時は、本当にそう思ったのです。
80歳くらいまでは、一緒に海外旅行まで行けてました。
誘うと具合悪くなるから行かないなどと抵抗してましたが・・。
やっぱり人間は
80歳が
一つのボーダーラインなんですよ!!!!!
誰もが言います。80歳すぎるとガクッと体調が変わる、80歳までだよねと。
もちろん、人によっては、シャキシャキと90歳でも100歳でもお元気な方もいっぱいおられますね。
急な母の変化
それは急に起こりました。
ある夏の日、花火大会に行く計画をたて、平日だったのと私の職場は自宅から30分ほどの距離。母も電車で子供二人はきついだろうと思いました。
当時、息子は5年生。娘は2年生。一週間前に二人を花火大会の駅まで連れて行き、教えておきました。当日の待ち合わせ場所も全て。
当日になりました。
待ち合わせの時間に息子から連絡がありました。
母が駅についた途端、銀行に行くからここで待っててと言い残し消えてしまったと。
地元の警察と消防署に連絡したところ、該当者なしでしたので、何かあったとは思いつつ携帯も繋がらなかったため、とりあえず花火をみて3人で帰宅しました。
すると母が平然とテレビを見ていたのです。
普通の母だったら、”ごめんね”、とか説明をしてくれます。
母は、普段、朗らかで笑いが絶えない人でした。
2人も子供も母が育ててくれたようなものです。当然いつもの母だったら、事情を説明するなりなんなりするのです。
ところが
”何が?”、”(子供たち)が消えてしまった”とか、怒った口調で言うのです。
心配した私も声を荒げてしまいます。
その母のリアクションが尋常ではなく、いつまでもいつまでも私の心にべったりとシミを作っていました。
続く